社会での仕事について考えていること
10月 8th, 2011 by tmkz | Filed under 未分類.日本の社会、概ね日本の人たちで作り上げている社会。
自分もその一員ではある。
しかし他の人が、なにを考えて社会で行動をしているのかが分からない。
聞かないからなのかもしれないが、聞く気もそれほどない。
常識で語ってくる人には、僕も大上段でしか応じない。
「自身の思考のなかに常識を位置づけている人」と、
「常識のなかに自身の思考を位置づけている人」は、
その人の雰囲気で、だいたい分かるものである。
とあるプロジェクトを
「完遂させるために、責任を持って行動している人」と、
「責任のある立場として、完遂させるための行動を考えていく人」、
微妙なニュアンスの違いではあるけれど、
両者は相容れないというのが、僕の体感です。
日本は「ここは自由の国だ!」というような、共通言語を持っていない。
スローガンは、あくまでスローガンであって、共通言語ではない。
スローガンを時勢に応じて作り、それに寄りかかり、安心する。
自然と作られる常識という枠で自由を束縛する。
対して、共通言語という枠のなかで、常識から解放されているのと、
どちらが良いかではなく、どちらが平穏で安全か、ということを考えると、
常識で自由を束縛していた方が、平穏で安全であるは確かである。
つまり何を言いたいかというと、
社会人を表明している多くの人が、何も考えずに社会にいるのだろうということだ。
何も考えずに、というのは、生活のためにとか、
社会人なのだから、つまり常識だから、ということを含む。
常識のおかげで考えなくて済むし、
常識の枠の中で悩んでいれば、社会にいられる。
僕は、こう色々言っていることとは裏腹に、わりとちゃんと働いている。
労働の仕組みに適合して、小さな組織の中では、
どちらかというと活躍している側に入っているだろう。
枠組みの境界で蠢きながら、社会の内側にいるというバランスが、
最大のパフォーマンスを生んでいると、分析している。
そもそもこんなこと言っちゃ元も子もないだろう、とか、
そんなこと考えている暇がない、というのは、
僕にとっては、つまらない。
楽しくなくてもいいけど、つまらないというのは苦行である。
このような苦行を乗り越えるためには、
それなりのパフォーマンスを出していくしかない。
この常識的な社会において、
境界線を生きるバランス感覚を楽しめる人と、
僕に仕事をしたいと思うのだ。